生業は顔を作る
身の回りの人々を見渡してみて、職業によってその人の顔つきが違うと感じたことはないだろうか。
「生業は顔を作る。」僕はこのことをとても不思議に思うことがある。
この現象の中には、職業上の環境や必要性が外見に影響を与える例もあるだろう。
外仕事をしている人は日焼けして精悍な印象になったり、ヤクザや警察は脅しのために怖い顔つきになったり。
その他、その職業における長年の動作や知見、経験がなどが蓄積されていくうち、それがその人の表面にも表れて職業にふさわしい外見になっていくということはもちろんあるだろう。
だが僕が不思議に思うのはそんな曖昧なことではない。それだけでは説明しがたい事例、もっと顕著で不可思議な事例を僕はいくつも目撃している。
その一つが、ある蒲鉾(かまぼこ)屋の例である。
その一家は代々、漁師町で蒲鉾の製造を生業としており、当代の主人夫婦やその子供たちが毎日まじめにせっせと蒲鉾を製造している。
その味に対する評価も上々で、この漁師町にしっかりと根付いた商いを続けている。
しかしここの主人、いや主人だけではなくその妻、そして子供たちに至るまで、顔が鱈(たら)にそっくりなのである。
ちょっと魚顔とかそういうレヴェルではなく、鱈を擬人化したような顔で、一家全員がそっくりなのである。
言うまでもなく蒲鉾の原料は鱈である。
毎日毎日、市場から鱈を仕入れてはすり身にして蒲鉾を作っているうちに、顔までがそれに酷似してくるということはあり得るのだろうか。
あるいは何世代も前から蒲鉾の原料となった幾万、幾億匹の鱈たちの無念というか残留思念のようなものが、その一族の顔になんらかの影響を与えているのではないか。いわば鱈の呪いとでも言えばよいか。
そう思わざるを得ないような事例である。
また別の事例で、ある瓢箪(ひょうたん)農家の例がある。
ここの主人はもともと別の作物の栽培で生計を立てていたのだが、趣味で栽培していた瓢箪にのめり込んでいくうちに、畑の大部分を瓢箪棚にしてしまった。
ここ二十年くらいは瓢箪一筋といった感じなのだが、この人の顔の形もまた瓢箪にそっくりなのである。
これらの事例は単なる偶然なのだろうか。
僕にはなんらかの因果関係があるような気がしてならない。
少なくとも第一次産業といわれる農林畜産業や生き物の殺生に直接関わる生業の人の顔は、その対象としているモノに似通ってくる傾向があるのではないか。
その生物の思念や魂といった見えざるものが関係しているのか、あるいは毎日その生物と対峙しているうちに自然とそうなるのかはわからない。
わからないが、僕の実感としてこの傾向はたしかにあるように思われる。
時々街で鳥に似た人をみかけるが、あれはきっと鳥撃ちか鳥に関わることを生業としている人だろう。
そんな視点から街行く人々の顔を眺めてみるのも面白いかもしれない。