「二つの世界はそのまま一つ」~鈴木大拙「仏教の大意」より

欧米のニューエイジムーブメントにおいて、「二人の鈴木」といえば、一人はサンフランシスコ禅センターを設立した曹洞宗の鈴木俊隆、そしてもう一人は仏教学者である鈴木大拙である。

二人とも仏教の教えを欧米に広く知らしめた人物として知られている。
俊隆はアメリカでの実践的な教化を通して、大拙は多くの著書や講演活動を通して。

ヒッピー文化が好きな僕は鈴木俊隆については知っていたが、もう一人の鈴木、鈴木大拙については今までその著書や思想に触れる機会はなかった。なんとなく敷居が高そうなイメージがあったからだ。

書店でたまたま鈴木大拙の著書「仏教の大意」の文庫本を手に取ったのも、厚さが薄くてなんとか読めるかなと思ったからである。

仏教用語や東西の様々な説話も差し挟まれているため読むのに時間がかかったが、そこに書かれている鈴木の仏教解釈に自らの仏教の認識が覆されるとともに、少しでも仏教に興味を持っている僕のような読み手を引き込む魅力を持った、いわゆる「読ませる本」である。

坊主の説法のような道徳的な話でもなく、ただの仏典の解説でもない。僕には人間の極めて根源的な認識の部分に対する仏教的解釈であるように感じられた。

鈴木大拙「仏教の大意」より、個人的に特に印象的だった箇所を抜粋して紹介したい。ちなみに僕は仏教についてはごく一般的な浅い知識しか持っていないので、誤認や解釈の間違いについてはお許しいただきたい。

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二つの世界はそのまま一つ

冒頭部分で鈴木は「われらの世界は一つではなくて、二つの世界だ」と説く。そうしてこの二つがそのまま一つであるとも。
二つの世界とは、一つは感性と知性の世界。これは私たちが普段意識して生きている世界である。
今一つの世界とは、霊性の世界である。そうしてこの二つはそのまま一つであるという。

おそらくこの時点で僕も含めて多くの人は戸惑うだろうが、この意味は著書の全編を通して言葉を尽くして説明されているので、ここでの詳しい解釈は省かせてもらう。
一つ、この言説を象徴するような箇所を抜粋したい。

知性は分別をその生命とするのですから、何でもを二つに分けないと承知しないのです。
然るに今要求せられるのは絶対の一者であるから、何か知性以外のものの働きがなくてはならぬ。しかしこの一者は二または多すなわち差別界にあっての要求であるから、この後者を離れてはならぬのです。
しかし、一は二に対する一ではない、二のほかに一があれば、その一と二とが対立して新たな二ができあがる、一はもはや絶対でない。一は二を離れてはならぬが、またその中に在るわけに行かぬ。即して離れず、離れて即せずということにならなくてはならぬ。
これが無分別の分別、分別の無分別であります。

我々が普段生きている知性・感性の世界は、あらゆるものを分別・差別し、また対象的・二元論的に認識することで成り立っている。これは人間として生まれた以上、あたりまえの感覚であり人間の性質である。
一方で霊性の世界を自覚した人にとっては、あらゆるものは無分別であることに気付くという。

そして無分別であるからには、分別の世界、すなわち知性・感性の世界と、無分別の霊性の世界も一つのものであるという。ヒッピーのいうところの「オールトゥギャザー」である。

分別の世界からなかなか離れられない僕のような凡夫には感覚的に理解するのが難しいが、根本的な部分での世界に対する認識をここに問われているような気がする。

祈りとは絶対矛盾である

論理的にいうと、祈りはまた絶対矛盾である。
自然の法則に遵(したが)うことをしないで、これに対する反逆だからである。これは人間だけに許されるところで他の動物にはない、また神々にもない。
人間は祈る、自己を超越したいと思う一念はなかなか熾烈ではあるが、生活の事実そのものは、そのようなことを許してくれぬ。因果が熟すれば生まれもするし、死にもする、病気にもなる。人為の作用で自然に対して多少の変化を起さしめることも可能であるが、それには限度がある。この限度を無条件に取り除くことはできぬ。

(中略)

それかといって、自分の力では何とも仕方がない、人間の力だけでは手の出しようもない。
この時に心の底から湧いて出るのが祈りである。誰かをどこかに見つけて、それに対して祈るというのではない。それは対象的・二元的である。ただ「自然」なるものの運行をひっくり返してみたいという、いわば一種の叛逆心である。これは非合理の極みである、そうしてまた単なる利己的希望から出るものでもない。
祈りは業繫において業繫を離脱せんとするもの、霊性的なものから出て来る衝動であります。

鈴木は祈りとは自然の法則に対する反逆だと説く。そしてそれは人間にのみ許された行為だとも。
仏教用語に「諸行無常」という言葉もあるが、万物はすべて変化し、朽ちぬものはない。そこには本来なんらの感傷もないはずである。

風が吹くと木は倒れる、風は倒す力に誇ることをしない、木も倒されたといって風を恨まない、風は吹く、木は倒れる、それだけである。無心で無念である。「御心の如くならせ給え」である。

しかし人間だけが生まれ持った知性・感性によって、そこに道徳や知性による解釈や価値を見い出して付け加える。それゆえに苦悩、不安が生じる。すなわち「業」である。

人間が業を背負っているのは宿命だといえるが、業に繫がれながらも、そこから離脱したいという霊性的な衝動が「祈り」であり、その祈りこそが人間を霊性の世界へと目を向かわせる原動力となっていると鈴木は説く。

人間という点で交差する三条の線

人間を幾何学でいう点に喩えることができる、この点に三条の線が集注またはそこで交差していると見てよい。この三条の線とは一つを物理的、自然的といい、今一つを知性的・道徳的といい、最後の一つを霊性的ということにしておきます。

第一の線は動物的、第二の線を人間的とも言い換えている。
そしてこれらの線の間は断絶していて連続していないと鈴木は説く。

霊性線への飛び移りは命がけの行為ですが、これをやらない限り悩みは抜けないのです。そうしてこれは飛び移りであって、一歩一歩の連続的進み行きではありません。百尺竿頭に一歩を進めると申しますが、時間的にも空間的にも文字通りの超越です。非連続の連続といってよいのです。

宗教は概して知性を厭うものであり、達磨大師の「不立文字」などの言葉もあるように、霊性や悟りに至るにあたって知性はかえって障害となるといわれる。
そのため古来の修行者は、あえて文字や学問を修めずに修行したという話も聞く。

霊性の境地に至るには、大死一番、飛び込むつもりでまず己の知性を否定する必要があるようだ。

阿弥陀如来の四十八願の意味

大悲心の話に戻りますと、華厳の法界を動かしているものはこれにほかならぬので、仏教者はこれに人格的相好を与えて具体化するのが常であります。阿弥陀如来というのはこの如き人格化の一つです。人格化というと、何となく幻影のように思われますが、ある意味でいえば、石も木も山も河も乃至燦爛たるもろもろの太陽系等もまた幻影にすぎないのです。

阿弥陀如来はもちろん仏であり信仰の対象だが、実在性があるわけではなく、阿弥陀(アミターバ)とは無量光(無限の光明)の義であり、慈悲心というか宇宙の理を仏教者が人格化したものであるという。
しかし歴史的実在性や事実がないために無力であるかといえばそうではなく、浄土系の人々にとっては極めて現実的で具体性に満ちた存在であるという。

その阿弥陀如来が立てたと言われる誓願(四十八願)の一つ、第十八願は浄土宗や浄土真宗では最重要視されている。
「一切の衆生が正覚(すなわち霊性的自覚)を成ずるまでは自分は正覚を取らぬ」
というもので、つまりすべての人間や生きとし生けるものが悟りを開いて極楽浄土へ往生しない限り自分は悟りを開かない、といった意味だが、知性的・論理的に考えると阿弥陀は仏であり既に悟りを開いているのだから今生きている我々全員も悟りを開いていないとおかしい、という矛盾が生じることになる。

これに対して鈴木はこう説く。

ところがこれを霊性的直覚の法界で見ると、弥陀の成仏が直ちに個己の成仏になるのです、そうして自己の成仏がまた他己の成仏になって行くのです。それでこの娑婆で一人の信心者ができると浄土にはこれを迎える蓮華が一つ咲き出るというのです。極楽という霊性的法界は娑婆という分別的世界と相互に聯結しているのです。そういうよりは、むしろ相互に映り合っているという方がよいでしょう。二つのものとして映り合うのでなくて、一つのものが一つを一つに映すのです。

阿弥陀如来を人格として捉えればこの誓願(第十八願)は矛盾に満ちたものになるが、阿弥陀は法界(宇宙)の理そのものであり、我々自身ということもできるのかもしれない。

言葉では説明しがたいもので、言葉を尽くして説明せざるを得ないのが人間であり、その表れがあらゆる経典、仏典であるのだろう。

古いそれらの書物は現代に生きる我々の感覚からはかけ離れてしまったもの、理解が難しいものも多いが、鈴木の透徹した現代的な視点からの仏教解釈と語りかけてくる言葉の数々によって、我々はその教えの真髄を窺い知ることができる。

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