現代社会にこそ響く「老子」の教え~その③~

老子の名言紹介も3回目です。

現代社会にこそ響く「老子」の教え~その①~

現代社会にこそ響く「老子」の教え~その②~

老子の教えの説く「無為自然」とは何なのでしょうか?

そのまま受け止めれば「何も為さずしてありのままにある」と解釈できますが、そんな生き方が可能なのでしょうか。

老子の教えからその意味を探っていきたいと思います。

老子の説く”無為自然”の境地とは?

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戸を出でずして天下を知り、牅(よう)より窺わずして天道を見る。

其の出ずること彌〃(いよいよ)遠ければ、其の知ること彌〃少なし

「老子道徳経」鑒遠第四十七より

~家から一歩も外に出ることなく天下の様子を知り、窓から外を窺わなくても天の道を見ることができる。

遠くに出かければ出かけるほど、知ることも少ない~

一見すると矛盾しているようにも思える言葉です。
「道」を身に付けた聖者は、家に居ながらにして世の中のあらゆる事柄や物事の本質を明察することができると説いています。

外に出ていろんな余計な知識や欲を身に着けるほど、その本質を見抜く眼は曇っていくということでしょうか。

現代で言うところの自宅警備員(ニート)の中にも、もしかすると老子思想にかぶれた人もいるのかもしれません。

学を為せば日に増し、道を為せば日に損す。

之を損し又損し、以て無為に至る。

無為にして為さざる無し。

「老子道徳経」忘知第四十八より

~学問をなせば日ごとに自分の中のものが増えていくが、「道」をなせば日ごとに減っていく。

これを減らして更に減らし、やがて「無為」に至る。

「無為」になればできないことはない。~

老子の教えの真髄ともいえる言葉ではないでしょうか。

知識を身に付けたり、何か事をなそうとするのではなく、そういった「作為的」なものをすべて捨て去って本来あるべき「道」の摂理に従って生きること、即ち「無為自然」の状態にあれば不可能なことはないとしています。

敢に勇なれば即ち殺、不敢に勇なれば即ち活。

「老子道徳経」任為第七十三より

~進んで果敢に事をなそうと勇を振るう者は他人も自分も殺すことになるが、争うまいと勇を振るうものは他人も自分も生かす。~

端的な言葉ではありますが、なるほどと納得させられます。

人の生まるるや柔弱なり。その死するや堅強なり。

萬物草木の生ずるや柔脆なり。その死するや枯槁(ここう)す。

故に堅強なる者は死の徒、柔弱なる者は生の徒なり。

戒強第七十六より

~人間は生まれた赤子のときは柔らかく弱い。だが死ぬと体は固く強張る。

草木もその芽生えるときは柔らかく脆い。だが死ぬと固く枯れる。

それゆえ堅強なものは「死」の仲間であり、柔らかく弱いものは「生」の仲間である。~

堅く強いものほど丈夫で良いという先入観があります。

しかし老子は強ければ強いだけ「死」に近く、水のように柔らかく主体性の無いものこそが「生」の仲間でであり「道」に近いとしています。

老子の教えを勝手にまとめると、

知識や学問を捨て、

主体性や競争心を捨て、

常に低きに流れるように生き、

そうして「無為自然」の境地に達する。

それこそが本来あるべき「道」である。

といったところでしょうか。(違うかもしれませんw)

現代社会で一般人がそのまま実践すれば世捨て人になるしかなさそうにも思えます。
しかし精一杯頑張っても満たされることの少ない現代人にとって、生きていく上での心の在り方として大きなヒントになるのではないでしょうか。

老子の言葉に対する解釈や受け止め方はひとそれぞれです。

私自身は「肩の力を抜いてリラックスしようよ。そのほうがいいことあるよ。」とずいぶん勝手な解釈で受け止めています。

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